渋沢栄一ゆかりの地マップ
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旧渋沢邸 中の家/青天を衝け第1話で紹介。渋沢栄一が生まれ、23歳まで暮らしていた場所。晩年はこの家で暮らしていたといいます。明治28年上棟。埼玉県深谷市にあります。入館無料。年中無休。
諏訪神社(血洗島)/第2話で紹介。渋沢栄一のふる里である血洗島に鎮座している神社。少年のころは自らも舞った獅子舞の鑑賞を晩年まで楽しみにしていたといいます。利根川で傷口を洗い流したという言い伝えが血洗島の名前の由来です。
弘道館/第3話で紹介。徳川斉昭(徳川慶喜の実父で常陸水戸藩の第9代藩主)が、藩政改革の一環として建てた藩校。弘道館では、武芸のほか、儒学、天文学、医学、国学など幅広い学問を教えていました。徳川慶喜は5歳からここで英才教育を受けていました。この地で生まれた尊王攘夷の思想が全国に拡大していくこととなります。
小石川後楽園/第4話で紹介。水戸藩の江戸屋敷内に造られた庭園。二代藩主の光圀が完成させました農民の苦労を伝えるため、庭園の中には稲田も設けられました。。
一ツ橋/第4話で紹介。徳川慶喜が生まれた場所で一ツ橋近くに、一ツ橋徳川屋敷があります。江戸城内であったことを示す石垣も残されています。
大川平三郎翁記念公園/第5話で紹介。神道無念龍の稽古場「大川道場跡」がある記念公園です。大川平兵衛はここから血あらい島に出向いて渋沢栄一達に剣術の稽古をつけていました。従兄「尾高長七郎」は江戸に留学してさらに剣の腕を磨き尊攘派の志士となります。
鹿島神社/第5話で紹介。渋沢栄一達が剣術を学んでいた道場があった場所。大川道場から大川平兵衛がここまで出向いて渋沢家に剣術の稽古をつけていました。
玉泉寺/第6話で紹介。アメリカの外交官ハリスは、玉泉寺に領事館を構えました。ストーブを設置するときにあけた穴が今も残っています。ハリスは、1858年(安政5年)に日米修好通商条約を締結したことで知られています。
馬喰さつき/第7話で紹介。藍玉の取引先と渋沢栄一が話し込んでいたときに、栄一の馬が庭の鉢植えのサツキを食べつくしてしまいました。お詫びに筆太に愛染明王と日付を書き残し、将来成功したら姓名を書き入れると約束したという逸話が残っています。
安中宿須藤本陣跡/第7話で紹介。渋沢栄一が尾高惇忠とともに旅をした道中で立ち寄った宿。
内山峡詩碑/第7話で紹介。渋沢栄一が漢詩を読んだ場所の一つで、漢詩に感銘を受けた地元の人たちによって詩碑が建立されました。この中に「青天を衝く」の一節が刻まれています。
埋木舎/第8話で紹介。井伊直弼が青春時代を過ごした舎。自らを花が咲かない埋もれ木に例えて、埋木舎と名付けた屋敷で禅や能の修練を積み、茶の世界に没頭していました。井伊家は、江戸時代滋賀県全域を治めており、井伊直弼は彦根城城内にある欅御殿(けやき御殿)で生まれました。
旧江戸城 桜田門/第9話で紹介。水戸脱藩浪士らによる井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」が起きた場所。井伊直弼の屋敷は桜田門の近くにあり、ここから江戸城へ向かおうと門を出たところで襲撃されました。
豪徳寺/第9話で紹介。井伊家の菩提寺で、井伊直弼の墓があります。
天寧寺/第9話で紹介。井伊直弼が襲撃を受けたときに座っていた座布団などの遺品が納められています。
草津宿/第10話で紹介。皇女「和宮」が徳川家茂へ嫁ぐ際に4日間立ち寄った東海道52番目の宿場町。上段の間で昼食をとり、中山道をとおって江戸へ向かいました。
旧深谷宿 東常夜燈/第10話で紹介。皇女「和宮」が徳川家茂へ嫁ぐ際に立ち寄った宿。本陣には、和宮が泊まった部屋と、和宮が使った草履が残されています。
東本願寺/第10話で紹介。世界最大級の木造建築「御影堂」がある東本願寺。徳川家ゆかりの寺で、第14代将軍徳川家茂が京へ上洛する際に、その後見職に任命された徳川慶喜が、将軍に先駆けて京に入り寝泊まりしたとされている場所
高崎城址/第11話で紹介。1863年渋沢栄一ら攘夷派の同志たちが乗っ取りを企てていた高崎城。尾高長七郎の説得で未遂に終わります。
三条小橋/第12話で紹介。渋沢栄一と渋沢喜作が平岡円四郎を訪ねるために京へ向かう道中に身を寄せていたとされる宿「茶久」の近くにあった橋。
京都御苑/第13話で紹介。かつて宮家や公家の邸宅が立ち並んでいた場所。幕末に京都御苑一帯が主戦場となった禁門の変が起きた場所でもあります。明治時代に公園として市民に開放されました。
天保山台場跡/第14話で紹介。幕末(1864年)に海岸防備の要所として築かれた台場(砲台)
湊川神社/第14話で紹介。幕末の薩摩藩士「折田要蔵」が初代宮司を務めた神社。楠木正成も祀られています
湯島聖堂/第15話で紹介。一橋慶喜の右腕として活躍していた平岡円四郎が青春時代を過ごした地。湯島聖堂は、五代将軍徳川綱吉が儒学の信仰をはかるために創建されました。
西町奉行所跡/第15話で紹介。平岡円四郎は、水戸藩士の襲撃を受けて西町奉行所の周辺で命を落としました。
筑波山神社/第15話で紹介。水戸藩内外の尊王攘夷派のひとつ「天狗党」の中心人物であった藤田小四郎が挙兵した地。
水藩烈士弔魂碑/第15話で紹介。岡部藩との小競り合いで命を落とした天狗党浪士2名が葬られている地
興譲館/第16話で紹介。儒学者・漢学者の阪谷朗廬が初代館長を務めた学校で、渋沢栄一と阪谷朗廬が対談したとされる講堂が残されています。
姫路城/第17話で紹介。木綿の一大産地。渋沢栄一は播磨の一橋領内で生産されていた木綿に着目。木綿の商いを成功させて一橋家に富をもたらしました。
今市地区/第17話で紹介。渋沢栄一は、今市地区に一橋産物会所を設けて、木綿をまとめて買い取っていました。また商売を円滑に行うため、一橋家の信用をもとにした藩札を発行しました。
壬生寺/第18話で紹介。会津藩9代藩主「松平容保(まつだいらたかもり)」のもとで京の治安維持にあたっていた新選組ゆかりの地。新撰組の屯所であった八木邸には、鴨居に当時の刀傷が残されています。
亀山本徳寺/第18話で紹介。新撰組が屯所に使った建物。明治の初めに本堂が焼失したため、1873年位京都にあった建物を兵庫県姫路市の本徳寺に移築されました。新選組がつけたとされる刀傷も残されています。
本国寺/第19話で紹介。徳川慶喜の異母弟で、徳川斉昭の十八男・徳川昭武(とくがわあきたけ)が、禁門の変の後に滞在した寺。昭武は、将軍の名代として、パリ万国博覧会に派遣されます。
旧江戸城清水門/第19話で紹介。日本武道館のあたりに、清水徳川家の屋敷がありました。徳川慶喜は、徳川昭武(とくがわあきたけ)に清水徳川家の相続を命じました。
戸定邸/第19話で紹介。徳川慶喜の弟、徳川昭武の私邸。となりの松戸市戸定歴史館の中には、慶喜が昭武に贈った陣羽織が残されています。
岩倉具視幽棲旧宅/第20話で紹介。公武合体運動を推し進めていたことで過激な志士たちに命を狙われて失脚した岩倉具視(いわくらともみ)が隠れ住んでいた場所。岩倉具視は、ここでひそかに倒幕のための活動をしていました。徳川慶喜は大政奉還で薩長との武力衝突を回避することができたものの、岩倉具視らの働きによって、慶喜は、小御所会議で政治の表舞台からは遠ざけられました。
寛永寺・根本中堂/第21話で紹介。徳川慶喜が謹慎していた葵の間が今も残されている建物。慶喜の警護を目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された彰義隊と新政府との戦い(上野戦争)の際に焼失しました。
円通寺/第21話で紹介。上野戦争(1868年7月4日)の時の鉄砲の弾痕がのこる黒門が移築された寺。
能仁寺/第22話で紹介。旧幕府軍の振武軍と新政府軍との間で激しい戦闘が起きた寺。本堂をはじめ大半の建物が消失しました。振武軍に所属していた渋沢成一郎と尾高惇忠は、逃げ延びましたが、渋沢平九郎は追い詰められて、顔振峠から山を下る途中で自刃しました。
渋沢平九郎自決の地/第22話で紹介。渋沢栄一の見立養子。旧幕府軍の振武軍に所属し、新政府軍との間で激しい戦闘が起きた際に追い詰められて自刃しました。
宝台院/第22話で紹介。静岡県静岡市にある徳川家康ゆかりの寺で、明治維新後に徳川慶喜が謹慎していた場所。寺にある石碑には、石碑には、当時の緊迫した状況が記載されています。
五稜郭跡/第23話で紹介。函館港の守りを固めるために築かれた西洋式の城郭。新政府軍と旧幕府軍との戦い(戊辰戦争)の中で、土方歳三や渋沢喜作らが五稜郭を占拠し、最後の戦い(函館戦争)となった場所。
徳川慶喜公屋敷跡/第24話で紹介。徳川慶喜が謹慎を解かれた後に居住していた場所。慶喜は、ここで絵画や写真撮影などの趣味に没頭していたといわれています。渋沢栄一が商法開所を開設した場所でもあります
大蔵省跡(忍藩上屋敷跡)/第25話で紹介。廃藩置県後に一時大蔵省の庁舎として使用されていた場所。渋沢栄一は、明治政府に招かれ大蔵省の一員として一時働いていました。
旧新橋停車場/第25話で紹介。日本の鉄道発祥の地。明治政府は、新橋・横浜間に鉄道を走らせる計画を立て、明治3年起点となる新橋に、測量するための杭が撃たれました。
郵便発祥の地/第25話で紹介。東京で最初の郵便局は、幕府の魚類御用屋敷に設けられました。前島密が、江戸時代の飛脚制度を応用した仕組みを考案し、これを引き継いだ杉浦譲によって郵便事業が開始されました。
華蔵寺(けぞうじ)/第26話で紹介。埼玉県深谷市にある渋沢栄一の菩提寺。寺の当時の住職が、栄一の父・渋沢市郎右衛門を弔ったとされています。
富岡製糸場/第27話で紹介。養蚕(ようさん)が盛んであった群馬県富岡市に、明治5年に設立され、昭和62年まで操業していました。木の骨組みと煉瓦でつくられた開業当時の外観が、ほぼ完全な形で残っています。
東京証券取引所/第28話で紹介。渋沢栄一は、合本法(株式会社制度)を導入するために、株式取引所設立に取り組みました。
銀行発祥の地(第一国立銀行)/第28話で紹介。日本初の銀行で、現在みずほ銀行兜町支店がある場所に設置されました。渋沢栄一は、大蔵省を退職したあと、第一国立銀行)の総監役(頭取)に就任しました。銀行の事業を中心に、株式会社を設立させる設立支援事業を展開していくこととなります。
清水谷/第29話で紹介。紀尾井坂の手前の清水谷で大久保利通が不平士族らに暗殺されました。
大久保利通公墓所/第29話で紹介。国葬級の葬儀が行われて、青山霊園に葬られました。
東京商工会議所/第30話で紹介。商人たちの話し合いの場として、1878年設立。渋沢栄一が初代会頭となりました。ビル内には栄一ゆかりの資料が数多く展示されています。
大阪商工会議所/第30話で紹介。商人たちの話し合いの場として、1878年設立。五代友厚が初代会頭となりました。
飛鳥山公園(旧渋沢庭園)/第31話で紹介。渋沢栄一が、1879年から、晩年の1931年まで別荘または本荘として過ごしていた邸宅跡。アメリカの軍人で政治家のグラント将軍をはじめとする内外の賓客を招きました。また茶室で慶喜と伊藤博文を対面させたというエピソードもあります。
東京都健康長寿医療センター/第32話で紹介。渋沢栄一が初代院長を務めた養育院を前身とする施設で、1872年に設立されました。現在は、心血管病(生活習慣病)、がん医療、認知症、救急医療に取り組んでいます。
渋沢千代の墓/第32話で紹介。明治5年にコレラで亡くなった渋沢栄一の妻の墓。谷中霊園の中にあります。
岩崎弥太郎生家/第33話で紹介。三菱の創業者。貧しい土佐藩士の家で生まれました。小さな庭園にある石組は、岩崎弥太郎が日本列島を模して作ったものと言われています。また土蔵の鬼瓦には、三菱のマークの原型である「三階菱」の紋が見られます。
土佐稲荷神社/第33話で紹介。土佐藩大阪藩邸跡に鎮座する稲荷神社。明治の初めごろ、敷地内に九十九商会がおかれて、岩崎弥太郎が事業を引き継ぎ、のちの三菱商会へとつながっていきました。
清澄庭園/第33話で紹介。明治11年、岩崎弥太郎が社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画し、明治13年に竣工。園内には弥太郎が全国から集めたという巨石が並んでいます。
上野東照宮/第33話で紹介。徳川家康をまつる神社で、300年祭の催事が行われました。
大勝神社/第34話で紹介。渋沢喜作(栄一の従兄)が初代社長をつとめた十勝開墾合資会社ゆかりの神社
渋沢喜作邸跡/第34話で紹介。現在の八芳園にあたる場所に、喜作が暮らしていた屋敷があったといわれています。
徳川慶喜公屋敷跡/第35話で紹介。德川慶喜が晩年(大正2年)を過ごした屋敷。800坪になる広大な屋敷だったといわれています。当時からあった巨大な銀杏の木は、今も残っています。
徳川慶喜公墓所/第35話で紹介。大正2年 徳川慶喜死去。渋沢栄一が委員長となって葬儀が執り行われました。参列者は6000人を超えて、沿道にも多くの人があつまりました。
渋沢栄一の墓/最終回で紹介。1931年(昭和6年)渋沢栄一死去。斎場から墓地まで4万もの人々で埋め尽くされました。1961年、千円札の肖像候補として最終選考にまで残りましたが、当時は髭がある方が偽造防止に効果的であったため、髭がない栄一は採用されませんでした。
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